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書名 | マルチメディアと教育 知識と情報、学びと教え |
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著者名 | 佐伯胖 著 |
書名よみ | マルチメデイア ト キヨウイク チシキ ト ジヨウホウ マナビ ト オシエ |
著者名よみ | サエキ ユタカ |
出版社 | 太郎次郎社 |
出版年 | 1999 |
ページ | 210p |
サイズ | 20cm |
請求記号 | 375.1サ |
ISBN | 4811806492 |
受入日 | 2009/09/19 |
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子どもの生活に広がるパソコン、インターネット、携帯電話……。マルチメディア洪水のなかの教育・学びはどうなる? 「情報=知識」という勘違いを超えて、情報やテクノロジーに振りまわされずに、コンピューターをどう使い、メディアとどうつきあい、学びを獲得するか。
プロローグ ぼくの後ろには道がない? I 学びとコンピューター 1 教育はコンピューター文化をどうとり入れるか 過去の「教育工学」の反省を生かして 「教え」主義によるコンピューターの導入 テクノロジー信仰に根深い伝統 「教育工学」のイデオロギー 「教育工学」からの脱皮 「人間とはなにか」を問えない 「行動主義」批判から認知心理学へ 「思考の科学」としてのコンピューター科学 教育とコンピューターのあらたな出会い 子どもから学んだコンピューター言語 わが国の教育とコンピューター 2「学び」の転換 徒弟制度における「学び」から学ぶ 教師の「熱心」さが、子どもを観客にする 「教師」も「教材」もない徒弟制度の学び 学びとは、ともに考えともにやること 学びが「正統」とはどういうことか 「大切さ」の予感につられて学ぶ 「周辺的」であることの意味 自分が参加して、はじめて「学び」が生きる 「同質性」の幻想から脱皮する 「納得がいく」ということ、「腑に落ちる」ということ 自分流にこだわることが、世の中に通用する II 教育とマルチメディア 1 情報化社会のなかの子ども マルチメディアが学校を変える 日常生活の情報化、情報の「コマーシャル」化 なんでも調べればわかるのか 「体験」情報の肥大化による体験のゆがみ インターネットが学校にはいって、どうなる? 「名前のある他者」、「名前のない他者」との対話 マルチメディアは教師の道具 2 教育における「コンピューター革命」のゆくえ 情報「再編集」教育に向けて 情報の再編集能力を育てる 3 マルチメディア洪水のなかの学び テクノロジー支配から「頭を冷やす」 パソコンが「家電」になるとき 企業もテクノロジーに振りまわされる 学校はいつまでパソコン教室もどきを続けるのか マルチメディアによる「表現」の実践とは 「資料集め」を知識の獲得とみなす勘違い 「ローテクこそハイテク」という思想 III 教えることと学ぶこと 1「知識」は天から降ってくるのか 日本の教育の「権威主義・手続き主義」を批判する 「自分ならどうする」がない 知識は権威あるやり方で学ぶのか 子どもたちの自分流の算数のわかり方 タイルでやれば、もっとうまくいく? 「正しいわかり方」を習得するのが教育か 2「学びの復権」とは「教えの制限」か●松下佳代 佐伯胖さんの提案を発展させて 「知識の権威主義・手続き主義」批判-佐伯胖氏の問題提起とは 「わかる」ことについての理論の対立-シェーマと略図について 「わかる」プロセス-「知識の段階性」をめぐって 教室の数学文化-「探求の数学」と「塾の数学」をめぐって 3 タイルを使った「教え」は権威主義か●加川博道 佐伯胖さんの提案に実践で応える 「十進位取り」の授業-佐伯論文を受けて 小数点の位置はなぜずれる?-小数のかけ算のナゾ 「略図か、タイルか」を超えて 4「タイルで考える」ことはどこまで有効か 加川博道さんの反論に答えて タイルはほんとうに有効だったか 略図による授業(案) 「タイルで考える」ことの不自然さ 5「数学する」とはどういうことか●小寺隆幸 佐伯胖さんへの手紙 「学校数学」の矛盾のなかで タイルは自由な思考にとってマイナスか 経験世界の限界 数学をどう「教える」べきか [補注]-さらなる対話のために 6「教える」ということの意味 小寺隆幸さんへの返信 「シェーマ」とは何か 具体とは何か、抽象とは何か 「教える」ということの意味 エピローグ 能力というモノは存在しない 「能力」社会の行きづまりを超えて まりさんのお料理づくり 「能力」のカゲのない表情 「料理がつくれた」とは、どういうことか 「能力」イコール「交換価値」の社会 能力というモノは存在しない